バッハを中心とした(ちょっと変わった)ピアニスト 福岡県福岡市西区にて音楽教室 (ピアノ・聴音・ソルフェージュ・楽典) 【山田音楽院】主宰 |
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目 覚 め |
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1965年、福岡に生まれる。 妹が弾いてるピアノを聞いて興味を持ち、両親に頼み込み小学2年生の3学期から始めるも、 そこそこに弾けた私は練習を全くしないままだった。 後に大人になって音楽の恐ろしさ、難しさ、奥深さを体験し猛省する。 中学生になり、中2の後半まで先生に習っていたが、先生の留学と自分の受験が重なったため、 それまでのレッスンを辞める。そこから自分の音楽と向き合うことになる。独学だ。 同じく中2からバンドを始める。当初キーボードだったのだが、計画していたライブの二日前に ドラム担当が骨折し、それからドラムを担当するようになる。これが後に、独特のリズム感と 言われる自分のピアノにつながっているのだと思う。 |
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J.S.BACHとの出会い |
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それから、東京進出をバンドのメンバーに促している矢先に、今は亡き叔父の山田順之介がやっていた 聴音を受講した折、J.S.BACHの“コラール”と出会う。この世にこんなすさまじく、洗練され、なお 簡潔な音楽があるのか!と、まるでハンマーで頭を叩かれたかのような衝撃を受け、音楽観まで変わり 同時に音楽生活スタイルがゴロリと変わった。それから楽しい猛勉強が始まる。 それまで大学とかまったく興味が無かった上に、そこはムダな時間とお金を使うところと勝手に 決めつけていたが、自由に音楽ができ、面白い人間がいるかもしれないとコロりと発想を変え 20歳で受験に取り組む。 自分にとって一番好きで親しみのある楽器は“ピアノ”だが、きちんとした勉強をしてない上、 独自の弾き方なのでピアノ科はムリと自己判断し、音楽をしたいがためにネーミングが格好よい “作曲科”を目指す。受験の前の年の5月から作曲の勉強とピアノを習い始め、奇跡的に 武蔵野音楽大学にひっかかる。しかし、作曲の勉強をすればするほどピアノが恋しくなり、大学の 入学式の当日に事務へ行きピアノ科に変わりたい旨を伝えたところ無理だとわかり、どうせ日本に いてもあまり変わらないならバッハがいたドイツに行こうと心に決める。 その一年間は東京に残り研鑽を積む。 |
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留 学 |
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翌年4月に福岡に戻り、2ヶ月間ドイツ語を学び、喋れる気になったと思い込んだところで 泊まる場所も決まってないままとりあえず飛行機に乗りミュンヘンに行く。多数の方に多大なる迷惑を かけまくりながら受験をするも、点数は足りていたのだがあまりにも幼稚なドイツ語と、教授との コンタクトをまったくとっていなかったため入学できなかった。それでもドイツに対する思いは消え なかった。そんな折、ハンブルグ在住で地元福岡出身のピアニストに翌年偶然にも出会う。 その方に音楽の想いを伝えたところ、ハンブルグにある自宅で勉強しても良いといわれ、さっそく 旅立つ。ハンブルグの旅は自分の音楽を見つけるため、また、本当の孤独を経験するための 旅にしたいと思っていたので、大学受験はもちろん外部との接触を一切遮断した。時計の秒針の音が 最大の雑音で、一秒一秒聞こえるたびに命が縮まって行く気になるほどの最高の集中の中、何も 悪くない時計たちが次々に破壊されていった。本当の孤独の中、自分のすべきことと、自分が出来る 事を確認出来た、唯一無二の経験だったと思う。 |
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現 在 |
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