プロフィール写真

プロフィール

福岡在住のピアニスト。
J.S.バッハの鍵盤作品を中心に演奏活動を行う。
2007年のソロリサイタル以降、オールバッハプログラムを展開し、ゴルトベルク変奏曲や組曲連続演奏など独自の企画で注目を集める。
山田音楽院 代表

目覚め

1965年、福岡に生まれる。

妹が弾くピアノに興味を持ち、両親に頼み込み小学2年生の3学期からピアノを始める。 しかし当時はほとんど練習をしないまま育った生徒だった。 後に大人になり音楽の難しさと奥深さを知り、猛省することになる。

中学2年生の後半までピアノを習っていたが、先生の留学と自身の受験が重なレッスンを辞めることになる。 そこから自分の音楽と向き合うことになる。独学だ

また、同じく中学2年生からバンド活動にも目覚める。 当初はキーボードを担当していたが、ライブの2日前にドラム担当が骨折し、急遽ドラムを担当することになる。 この経験が、後の独特なリズム感につながっていると感じている。

J.S.BACHとの出会い

東京進出をバンドのメンバーに促していた矢先、叔父・山田順之介(故)が行っていた聴音を受講。 その際、J.S.BACHの“コラール”と出会い、その音楽のあまりにすさまじく、 洗練され、なおかつ簡潔な音楽に、まるでハンマーで頭を叩かれたかのような強烈な衝撃を受ける。

この出会いによって音楽観は一変し、音楽との向き合い方も大きく変わった。それから楽しい猛勉強が始まる。

それまで大学にはまったく興味がなく、無駄な時間とお金を使う場所と勝手に決めつけていたが、自由に音楽ができ、 面白い人と出会えるかもしれないとコロリと発想を変え20歳のとき大学受験に取り組むことを決める。

最も親しみのある楽器は“ピアノ”だが、きちんとした勉強をしてない上、独自の弾き方なのでピアノ科には 到底受からないだろうと自己判断し、音楽をしたいがためにネーミングが格好よい“作曲科”を目指す。 受験の前年5月から作曲とピアノを習い始め、奇跡的に武蔵野音楽大学に合格。 しかし、受験期間中に作曲の勉強をすればするほどピアノが恋しくなり、 入学式当日に大学事務所へピアノ科に変わりたい旨を伝えても叶わず、 どうせ日本にいたところであまり変わらないだろうと、またまた勝手に決めつけて、それではバッハのいたドイツに行こう!と決意する。 その1年間は東京に残り研鑽を積む。

留学

翌年4月に福岡に戻り、2ヶ月間ドイツ語を学び、喋れる気になったと思い込んだところで泊まる場所も決まってないまま、とりあえず飛行機に乗りミュンヘンに行く。 空港で荷物が届かないトラブルに遭い、さっそくドイツ語を披露する機会がやってきたが、何を言っているのかさっぱりわからず、 持っていたメモ帳に内容を書いてもらう始末だった。それ以来、メモ帳と鉛筆だけが唯一頼れる存在となった

多数の方に多大なる迷惑をかけまくりながら受験をするも、点数は足りていたのだがあまりにも幼稚なドイツ語と、 教授とのコンタクトをまったくとっていなかったため 「入学してもあなたの席がない」と言われたので、博多弁で応戦したがどうにもならなかった。 観光ビザでの渡航だったが滞在期間を前倒しして帰国する。

帰国しても、なにかドイツに忘れ物をしたような気分を抱えたまま過ごしていた。 そんな折、ハンブルグ在住で地元福岡出身のピアニストに翌年偶然にも出会う。 その方に音楽の想いを伝えたところ、ハンブルグにある自宅を使ってもよい。といわれ、さっそく旅立つ。 ハンブルグでの旅は自分の音楽を見つけるため、また、本当の孤独を経験するための旅にしたいと思っていたので、 大学受験はもちろん、外部との接触を一切遮断した。 時計の秒針の音が最大の雑音で、一秒一秒聞こえるたびに命が縮まって行く気になるほどの最高の集中の中、 何も悪くない時計たちが次々に破壊されていった。この時に生きている限り一秒も無駄にはできないと思う『死生観』が生まれた。 また孤独の中、次第に様々な事を考え始め、その中でこれまでの自分を振り返ると「自分には音楽しかない。 音楽しかやってこなかった。音楽しかできない。」と今更ながらにわかり、この先はこの“音楽”で社会に還元していこうと『生き方』を決めた。 今回も観光ビザだったので、滞在期間中90日間のほとんどを音楽に捧げることができた。 本当の孤独の中、自分のすべきことと、自分が出来る事を見つけることができた、唯一無二の経験だったと思う。

帰国後

帰国後はこれまでの経験をもとに音楽を人に伝えたいと考え、教育活動を始める。 ただ、これまでほぼ独学だったので、レッスンを始め様々なことをどうやるものかと暗中模索の日々を過ごしていた。 が、伯母でピアノ教師の志賀のぞみ(故)、叔父で聴音・ソルフェージュ教師の山田順之介(故)と、恵まれた環境の中、 両者から学び支えられ、今日の独自の教育スタイルに至ったのだと思う。

演奏活動としては、42歳の2007年、遅咲きながらオールバッハプログラムによる初ソロリサイタルを開催。 この公演が好評を博し、同年宮崎、翌2008年には東京・銀座の王子ホールで追加公演を行った。

2013年には福岡で『ゴルトベルク変奏曲』を演奏し、その独創的な音楽観で大きな反響を呼ぶ。 これをきっかけに、翌2014年からはバッハの組曲作品(イギリス組曲・フランス組曲・パルティータ)の連続演奏に取り組み2022年に完遂した。 2017年には『ゴルトベルク変奏曲』の再演もした。

試練と再生

2021年秋頃より指が思うように動かなくなり、脳の病気『ジストニア』と診断される。 2024年10月に機能的脳手術を受ける。 その後、独自のリハビリに取り組み、手術後約一年で奇跡の『復活コンサート』をやり遂げ、聴衆に多くの勇気と感動を与えた

現在はバッハ演奏講座『音楽道』を定期開催するほか、YouTubeチャンネル『BACHIKARA』での演奏配信や、音源を添削する『音源レッスン』なども展開している。

またドイツリートのピアニストとしての活動のほか、チェンバロ奏者としての演奏にも取り組んできた。 現在山田音楽院代表。これまでに数多くの音楽家を育て世に輩出している。

2026年3月改訂


※このホームページ上の画像・文章等を許可無く
転載・使用をすることを禁じます。
© 2008-2026 Chikara Yamada