2025.12.14 最新完結話 UP!

次回2026.2.15(日)開催


目次へ リハビリの様子を動画で紹介しております。是非ご覧ください。



 ・2024年10月6日~10月28日
 『退院から再診前日までの日々』 ~自分を実験中~
退院してから、約一か月。自分の体を毎日観察しながら、さまざまな変化を探っていた。

①ロレツ
入院中と変わらず、自分自身では思い通りには発音出来ていなかった。これについては、ゆっくり話しながら、コツをつかむ作戦を継続することにしていた。

②歩行
退院翌日、体の調子を試そうと、我が家のアイドル・ポメラニアンの“ポン助”の散歩へ。
行動を注意深く観察していたので、このときも以前と違う点をすぐに見つける事ができた。
無意識に歩いていると、右方向に体が持っていかれるのだ。「なるほど、そう来るか!」と思ったが、これは左に態勢を立て直せば済むことだ。
もう一つ発見。右足だけ靴底をこする。試しに小一時間程の散歩中に数えてみると、左が5回に対し、右は30回以上。左脳を焼いているのだから、 右半身の筋肉が思うように働かないのだろう。日を追うごとに、こする回数は減っていったが、それ以降の散歩では「右に行きたがる体を左に持ち直し、
右足は高く上げる」。その結果、昼間から飲んだくれた人のようにフラフラ歩いていた。

③食事
驚いたのは、麺をうまくすすれなかったこと。空気ばかり入ってくるのだ。こんなにも“すする”という動作が難しいと思ったのは人生初だ。自分でもウケながら、 必死にすすっていた。ただし、お箸やスプーンはそこまで不自由なく、お米を食べるときも問題はなかった。

④洗髪
手の動きが、左右でスピードがまったく違う。右は怠け者のようにやたら遅い。そこで左に合わせ、同じリズムになるよう注意しながら洗った。

⑤運転
特に先生からは注意されていなかったが、歩行があの調子なので、運転はかなり用心深くした。右足でアクセル・ブレーキを操作するからだ。案の定、 ペダルを必要以上に踏み込む。右カーブも大回りになる。
妻には「これもリハビリ」と言って同乗してもらったが、それこそ事故でも起こしたら洒落にならない。免許取りたての頃を思い出して慎重に運転した。

⑥ピアノ
こちらも入院時と変わらない。まだまだヘタクソ。『焦りは禁物』。そう胸に刻み、日々鍛錬するしかない。
ときおり、今まで全く弾けなかった和音の連打を試し、「フフフ…」と自己満足に浸っていた。手術前から「ある程度は動きが変わるだろう」と予測はしていた。 だが、実際に体感してみると驚きの連続だ。とはいえ、驚いてばかりでも事実は変わらない。ならば、これは『進化』だと捉え、日々の変化を楽しんでいくしかないな。


 ・2024年10月29日
  『三愛病院 再診』
手術から1か月。今日は再診の日。今回は妻も一緒で、これが初めての顔合わせとなる。
病院に着くと、たった1ヶ月しか経っていないのに、とても懐かしい気持ちになった。
受付を終え、レントゲンやCTの撮影などの諸検査を済ませ、平先生の診察を待った。 ほどなくして呼ばれ、診察室へ入った。そこには、後光がさしている『平先生』がおられた。
「お~!お久しぶりです!!」思わず気合が入った挨拶になってしまった。続いて、妻を紹介する前に感謝してもしつくせない言葉のオンパレードを並べ立てた。
しかし先生は、平然と「その後、いかがですか?」と至って普通の反応だった。もうちょっと劇的な再会をはたしたかったのだが、そりゃそうだ。
あのような神経を張り詰めたオペをこなしているのだ。その他は平常心でいなければ、身も心も持たないだろう。
その対応に我に返り、ようやく妻を紹介し、この1か月の体の異変を報告した。
「それは、手術後の後遺症で、時間と共に治ります。」と、先ほど撮ったCTの画像を見せてくれた。焼いた患部は黒くなっていて、その周りをうっすらと黒い影のようなものが囲んでいた。
一種の“ヤケド”状態なので、周りは“水”だそうだ。普通のヤケドの時の水ぶくれに当たるそうだ。

説明が終わって一言、「キズの具合も良好。もう来なくていいです。」
・・・・・・へ?
事前にもらった資料には、術後1か月・3か月・半年・1年・3年は経過観察とあり、次の診察は年明けて2月か~などと思っていた私は面食らった。
「次は3か月後じゃないんですか?」と尋ねると、
「あの資料は古いものなので、現在はキズの具合を見て大丈夫そうなら、一回だけです。」
続けて
「もし、何かあったら連絡下さい。」と、超不吉なことを言うので、 「再発とかあるんですか?」と聞くと
「3 か月なにもなければ、ほとんど再発しません。」
・・・・・・ほとんどだ?!
「ということは、再発はゼロではないんですね?」とたたみかけると、
「反対の手に出たり、別の箇所...例えば肩とかに出る場合があります。その時は(自分のCT画像を指さしながら) ここを焼きます。」と、穏やかなトーンで強烈なことを言い放った。 続けて、ほほえみながら私を見て、
「しかし、山田さんは大丈夫だと思いますよ。」
おそーい!
それ先に言ってくれ。 とはいえ、再発するかどうかは先生でさえも分かるはずない。
これは術後3か月後の、ちょうど1月1日元旦がXデーになるな。その日まで祈っておくしかない。
その後、妻にとても詳しく分かりやすくジストニアについてのお話をしてくださった。
その会話中にも、「なにかあったらいつでも連絡してください。」と言ってくれるのだが、見た目はお若いが、どうみても私より年上だ。 すかさず「いつでもとおっしゃいますが、いつまで(手術を)やられるおつもりですか?」と聞いたら、「まだしばらくは、いますよ。」と苦笑いされた。 また以前から思っていたことを聞いてみた。「しかし、この手術を最初に受けた人は、勇気がありますよね」....どのような人だったんですか? とまで聞きたかったのだが、先ほどよりもさらに苦笑いされていたので辞めた。そんなやりとりをして診察を終えた。

平先生とお会い出来なくなるのは寂しいが、音楽家としてちゃんと復活するのが恩返しと思っている。
明日からまた、リハビリと向き合うぞ!と心も引き締まった。
病院を出るや否や、妻から“二つの余計な発言”についてお叱りを受けた。 平先生に教えたら喜ぶだろうな~、とか思いながら帰路についた。


 ・2024年11月15日
 『来年コンサートのホール予約』
今日は来年予定しているコンサートのホール予約の日だ。福岡市にはクラシック専用のホールが、驚くことにわずか二つしかない。一つは市が所有するもの、もう一つは民間のホールだ。
お隣の北九州市には専用ホールがいくつもあるのに、福岡市ときたら多目的ホールばかり。クラッシク文化の成熟度という点では、どうにも遅れをとっている。
-----まぁ、ここでぼやいてもしょうがないが-----

私はここ10年以上、市のホールで演奏活動を続けている。専用ホールが少ないぶん人気も高く、特に“芸術の秋”ともなると競争率は跳ね上がる。ライバルたちがどこからともなく現れるのだ。
このホールでは毎月15日、「調整会議」と呼ばれる日程抽選会が開かれる。来年の同じ月にホールを借りたい団体の代表者が集まり、事前に第3希望までをエントリー。希望が重なった場合、抽選となる。
抽選方法はシンプルだ。1~100までの番号が入った封筒の中から一つを引き、小さい数を引き当てた人が当選となる。第1希望の日に他に希望者がいなければすんなり決まるのだが、 私はコンサートを毎回土曜日にすることに決めているので毎回抽選組だ。
案の定、今回の希望日は一番人気だったようで、司会者から発表されたその日には、多くの団体が読み上げられていた。
実はこの時も、ピアノはまだ全然ヘタクソで、鍵盤をガン見しながら、信じられないくらい遅いスピードで、スケール(音階)やリハビリを行っていた。バッハの平均律を片っ端から頭に詰め込む作業もしかりだ。
だから当たってほしい反面、外れてもどこかで『クジのせいにするか~』と、自分らしくないことを思ってもいた。
抽選は月初めから日を追って進行するので、私の希望する29日は終盤になる。当選者は歓喜の声を上げ、落選者はその場で会場を後にする。肩を落としながら…そんな光景を横目に、いよいよ私の番が回ってきた。挙手をして前列へ…
いつもはどの封筒を引くか、あらかじめ場所を決めていたのだが、なぜだか今回は何も考えていなかった。何気なく手を伸ばし、そーっと開封したら…なんと“2番”ではないか!!
顔には出さなかったつもりだが、嬉しさで鼻の穴が広がっていたに違いない。でも待てよ、万が一にもまだ“1番”が残っている。油断は禁物と自分に言い聞かせつつ、気を引き締め直した。
が、会場にいた知人に向け、当たった数字を見せびらかしたりして、思いとは裏腹に思いっきり喜んでいた。こうして無事、来年のコンサート開催がこの瞬間に決まった。喜びと同時に、正直怖さもあった。
しかしこれまでの人生、選択を迫られるたびに、あえて険しい方を選んできた。その方が自分を強くしてくれると信じているからだ。慌てず、焦らず、一日一日を大切に前進するしかない!そう強く心に言い聞かせ、会場を後にした。


 ・2025年1月1日
 『Xデー』
年が明けた。
めでたい日ではあるが、今年の元旦は私にとってもう一つ特別な「おめでたい日」でもある。
「術後3か月再発しなければ、その後も再発はしません」平先生がそう言って下さった“その日”がまさに今日なのだ。もちろん、カレンダー通りきっちり3か月で「せーの!」と再発しなかったわけではないだろうが…
それでも、この日を心待ちにしていた自分がいた。
ジストニアで指が勝手に丸まっていた感覚は、今でも鮮明に残っている。ピアノはまだ思うようにはならない。けれど、今日という日は私にとって“小さな希望”を形にしてくれる節目だった。
次なる『Xデー』は、術後半年にあたる4月1日。右に傾く身体や、ロレツの回りにくさといった後遺症も、その頃には消えているだろうと聞いている。脳の中の水も半年で引き、ようやく本来の状態に戻るという。
それまでは「ピアノが弾けないのも後遺症のせいだ」と割り切れる。
だが4月には、その言い訳も消える。
その時こそ、本格的なリハビリの正念場となるだろう。そう思うと、胸の奥で静かに決意が燃えてきていた。


 ・2025年3月4日~
『XデーⅡ~本格的リハビリ始動』

2025年3月4日~ 『XデーⅡ~本格的リハビリ始動』

二回目の『Xデー』は、本来なら後遺症がほぼ消えるとされる術後半年後――4月 1日の予定だった。

しかし待ちきれず、ひと月早い 3月4日から始めてしまった。完全なるフライングだが、“リハビリ”との直接対決を、もう我慢できなかったのだ。

これまでも、ピアノをゆっくりと弾きながら模索を続けてはいたが、今日から「本格的に」腰を据えて取り組む決意を新たにした。


3月4日~『ノンレガート スケール』

最初に挑んだのは『スケール(音階)』、しかも『ノンレガート』での練習だ。

右手が、まるで鍵盤の位置を忘れてしまったかのような動きをする――以前にも書いたが、その違和感はいまだに消えていなかった。

ピアノ演奏における手の移動は、基本的に“横移動”だ。その際にもっとも頼りにするのが親指だ。

親指は他の指と比べて格段に可動域が広く、付け根の位置も独特だ。物を掴むのにも不可欠で、普段なら重宝すべき指のはずが、今はまるで“わからず屋”の代表格になってしまっている。

スケールを弾くとき――右手の上行形では、親指は手のひらの下をくぐり、姿を隠しながら次の鍵盤を打鍵する。

以前なら何の迷いもなくできていたその動作が、今は不確実になってしまったのだ。

術後まもない頃はさらにひどかった。

親指が狙った鍵盤に届かないどころか、感覚そのものが以前とまるで違っていた。頭と目では場所を理解しているのに、親指は思いもよらない鍵盤へ突っ込んでしまう。

普通ならイライラして当然――まさに絶好のストレス場面だ。だが、そうは問屋が卸さない。ここで感情に飲み込まれたら、それこそ敗北である。私は自分自身に「負けるものか」と言い聞かせ、絶対に音を外さないくらい遅く、確実なテンポで練習を重ねた。

結局のところ、練習とは気分よく進めてこそ上達できるものだ。

術後当初に比べれば、今はほんの一ミリでも前進しているはずだ。

今日から始めたスケールの練習は、メトロノームを 80に設定し、ノンレガートで一音ずつ打鍵しては離すという弾き方だ。その際、離鍵のスピードも打鍵と同じように保つ。

具体的には、スケールの「ド」を四分音符=80で弾くとすれば、離鍵はその半分、すなわち♪=160の八分休符の長さで離す、ということになる。それをすべての調で続けて弾いた。

ちなみに、『80』といっても、スケール一音につきの速さになる。ピアノをやっている人にはこれだけで、眠たくなるような速さかおわかりになるだろう。

弾く順番は、昔から馴染みのある『HANON(教則本)』に従った。C dur(ハ長調)~a moll(イ短調)~F dur(ヘ長調)~d moll(ニ短調)~B dur(変ロ長調)~…という具合に全部の調を。

実際やってみると、親指だけでなく、他の指の動きもよく観察できた。

親指がボケているのはもちろんだが、他の指も心なしか自分の意志とはズレて動いている。その一つひとつを、ジロジロと観察しながら確かめていった。

また、スケールの最後には『カデンツ(終止)』があり、一律に書かれた和音を弾く。だが次の調へ途切れなく移るために、次の調のドミナントセブン(属七)を付け足して弾く。和音を弾く瞬間も、以前との違和感を探りながら確認していった。

特に気付いたのは、右手が以前より即座に広げにくいこと。

そこで、本来小指で弾くところを薬指に替えて打鍵し、指の広がりを計った。このとき黒鍵を押さえる際、薬指が落ちやすいことも判明。手のひらの位置が以前より下がっているのかもしれないと考え、手首の高さの調節も意識しながら弾いた。

もはや音楽とはかけ離れた作業だが、それでも没頭して取り組んだ。


3月27日~『過去に自分で作った、指のメカニック体操』

ノンレガートスケールは今も実践していて、メトロノーム 80の動きに納得したら、次は 81というように緩やかにテンポを上げていった。

それだけでは物足りず、ジストニア発症中も工夫を重ねていた『指のメカニック体操』を再び取り入れることにした。

あの頃は単なる指の独立練習だったが、今は“神経との再交信”を目的とした再教育として見直している。

具体的に説明してみると――

※YouTubeチャンネルにも載せているので参考にしてください

~『指のメカニック体操』※指の呼び名は数字で(親指→1指、人差し指→2指のように)

レッスン 1 ~ 【5指を固定し、指 1本ずつの独立性を高めるための基礎体操】

①:両手を 2オクターブ離して、ドレミファソのポジションにべちゃっと押さえつける
鍵盤を押さえたまま“つまむ”動きで手前に持って来る(手の第 3関節が盛り上がるはず)
次に指先に負荷を感じながら、それぞれの関節をほんの少しだけ曲げる(または丸める)
Point!  この時に 10本の指、または鍵盤が浮かない事
メトロノームを必ずつける
Point!  私は 80から始めたが、速いと感じたらもっと遅くする。決して速くしない
メトロノーム 80を 1 カウントとして、1本の指で 4 カウント数える

~実践~
1 カウント…打鍵
Point!  手首や腕の反動をつけない。あくまで“指”に集中する
2.3 カウント…指を支えているところ(負荷がかかっている)を意識する
4 カウント…離鍵
Point!  この時に指を出来るだけ高く上げる。打鍵するときの反対の筋をストレッチするつもりで
これを 1指から順に 5指まで弾いて、5指まで弾いたら 4指から 1指へと帰る
②:状態は①と変わらないが、動かす指の順番を変える
    1 を 4 カウント弾いたら、次は 2 も 4 カウント。この『1 と 2』をセットとする
    このセットを 4回繰り返す
    弾いていく順番 ~ 『1・2』 『3・2』 『3・4』 『5・4』 『3・4』 『3・2』 『1・2』
③:これも①と②と注意することは同じ
	弾いていく順番が変わる(3度の動き)
	これも一つのセットを 4回繰り返す
	弾いていく順番 ~ 『1・3 』『2・4』 『3・5 』『4・2』 『3・1』
      

レッスン 2 ~ 【指 1本を支点とし、他の指のペア運動を再教育する体操】

ポジションはレッスン 1 と同じ

メトロノームも 80から始める(この時も速いと感じたらさらに遅くする)

~実践~
①『1指』を押さえたまま…『3・5』を同時に弾き、続いて『2・4』を弾く ← これを 1セットとする
    これを 8セット繰り返す

②『5指』を残す…セットは『1・3』『2・4』
   これも 8回繰り返す
③『4指』を残す…セットは『1・3』『2・5』
④『3指』…『1・4』『2・5』
⑤『2指』…『1・4』『3・5』
      

Point! この体操は少し難しいので、最初は片手ずつで練習し、音をつなげず一回『3・5』を弾いたら切って、次の『2・4』を押さえる。というところから、徐々につなげてから両手で弾けるように進めていくと良い。

レッスン 3 ~ 【指 2本を支点に、残り 3本を個々に動かすことで、指の独立性と支点感覚を鍛える体操】

ポジションも速さも上記と同じ

~実践~

Point! これも『レッスン 2』同様に、難しかったら片手ずつゆっくりと練習を進めたらよい。

レッスン 4 ~ 【一つの手で 2声を弾き分け、固定指と可動指を分離することで多声制御を再構築する体操】

レッスン 5 ~ 【親指の通過と手の重心移動を整え、スケール全調への自然な連携を取り戻す体操】

ポジションは今までと同じ

速さも同じ 80で

~実践①~

ノンレガートで全調を弾く

上記『3月4日』の項目で記した方法で

メトロノームは 1音につき『80』で

~実践②~

普通にレガートで弾く

速さは①の 2倍のテンポ、2音=80で(♪=80)

ただし、全調を途切れさせたくないので、各調性の変わり目に音を足す。例えば…

C durから a mollに移るときカデンツを引かずに、最後に『ドレドシ』を足す。

この時の指使いは任意とする。

次は a mollから F durになるが、その場合次の調性に従う。つまり…

『ラシ♭ラソ』となる。それ以降も同様に。

以上の練習を、この日から本格的に始めた。

この日の所要時間は 2時間を超え、それぞれの指との対話はこれまでになく密接なものになった。

終わりの見えない作業――だが、手ごたえがあったかと問われれば、正直まだわからない。

それでも自分と指を信じて、11月 29日に向けて歩み出した。



 ・2025年3月28日~
 『リハビリ~その後』
この日も、昨日と変わらぬリハビリを根気強く続けていた。

グランドピアノの場合、弾いている手の格好が鏡面仕上げの蓋に移る。
まともな左手を“師”と仰ぎ、蓋に移った「左手先生」の動きをギョロギョロ見ながら、 打鍵の角度や、打鍵後の指の位置、手首の高さなどを確認しては、次の作業へと進んでいった。

やはり意識していなければ指が支えられないのか、ちょっと気を抜くと手首から下がっていく。
ということは、指先の“つまむ”という虫様筋の感覚が、やはり衰えているのだ。
しからば――肘も少し(同時に手首も上がる)上に上げ、高さで調節してやろうと考え、この日からイスの高さを数センチ上げてみた。確かにコントロールがしやすくなった。

弾き方も、従来のように手指を丸めて弾くスタイルにとらわれず、虫様筋を鍛える意味でも、指を伸ばした状態から第3 関節~第2関節~最後に第1関節の順に、 指先に負荷がかかるような弾き方に替えた。結果、以前よりも指の腹側での打鍵となり、少しは左手先生に近いものを感じられるようになってきた。

この変化に気づいたのが、リハビリを始めておよそ一週間ほどだった。


 ・2025年5月 ~
 『リハビリ~日々の発見』
次は、テンポを少しずつ上げていった。(以前も書いたが、80で納得したら翌日は81と、急にテンポを上げることは避けた)
毎日、昨日とのほんのわずかな違いを探りながら、慎重に進めていった。

テンポを上げながら気づいたことがある。
ジストニアの影響をもろに受けている右手中指から小指ばかり気にしていたのだが、残りの二本――親指と人差し指も、以前とまったく変わっていたのだ。
強弱が付けにくい。音楽用語でいえば“音のツブが揃っていない”状態である。

考えてみれば、左脳を焼いているのだから、右半身に何かしら影響が出ていても不思議ではない。
特にスケールを弾くときに感じた。上行形(親指が手のひらの下をくぐる動き) の際、親指を打鍵したあとのコントロールがうまくつかめない。
しかし下行形ではそうはならない。なぜか?
右手の場合、下行形の方が体の動きに自然にマッチしているからだろう。左方向へ向かう際、腕や肘が外向きになり、手首や手のひらまで内側に巻き込む形になる。
そのため、親指が自然な形で支えられているのだ。

つまり――犯人は、上行形の際の「親指を含む手首の高さ」であり、同時に、他の指すべてのポジションも整っていなかったのだ。
案の定、この動きに気をつけて打鍵してみると、よりスムーズな運びとなり、音のツブも揃ってきた。


 ・2025年6月 ~
  『音楽家としての目覚め』
それ以降もテンポを上げていき、だいぶ速くなってきたスピードに慣れる練習を続けていった。

速くなるにつれ、頭の片隅にいつも離れてくれなかったのは、術前の説明で聞いた『術後の音楽家への影響』―-“スピードが出ない”“リズムが取れない”という、 あの恐ろしい言葉だった。思い当たる節があり過ぎる。慎重に進めなければならない。

スケールはかなりスピードにのれるようになってきた。
だが困ったことに、人差し指と中指の速いパッセージでの動きがどうもうまくいかない。
私はバッハ弾きなので、曲中に無数に登場する装飾音(トリル・モルデント・ターンなど)が、今はほとんどままならない状態だ。手首や角度をいろいろ調整しながら、 試行錯誤を重ねている。

そんな中、ここにきて大切なことを思い出し、あっさりと方針を変えることにした。リハビリはもちろん続けるが…

今までは「左手のような右手」を求めていた。しかし、そうではない。

いま現在の自分で、最も良い“音”を出すこと。そして、自分にとって奏でやすい弾き方を見つけること。
――それこそが、この病気になるずっと前から、日々追い求めてきたものだった。

聴き手は、右がどうとか、ジストニアだからどうこうなどと考えて聴くわけがない。ただ純粋に、きれいな音と美しい音楽を聴きたいのだ。
そんなことを装飾音がなかなかうまく弾けず悪戦苦闘していたときふと気づいた。「そもそも、装飾音を聴きに来ているわけじゃない」と。

開き直りにも思えたその瞬間、『ジストニア』という言葉にとらわれ過ぎていた自分に気付くことができた。もちろん、装飾音もきれいに弾けるに越したことはないが。
うっとりするような音を出すつもりで明日からもう一度挑もう。変なスイッチが入ったような、切れたような衝撃を感じ、今一度、音創りに取り組む自分と向き合おうと思った。


 ・2025年7月~8月14日~9月1日
  『西日本新聞~取材~掲載』
左手のマネはやめ、いまの状態で弾きやすい形を探りながら進める日々が続いた。
テンポばかり追うと“弾くだけ”の練習になりかねないので、8月中旬には速さの上限を感じたものから順に終了。スケールだけは9月上旬まで続け、気づけば半年以上も取り組んでいた。

コンサートのプログラムにも手を付けていたが、しばらくは《リハビリ:プログラム=8:2》といった割合だった。だが、少しずつ意識的にプログラムへ比重を移していき、 8月に入る頃には《1:9》ほどにまでシフト。記録では、9月10日から完全にプログラム一本に移行している。少々ゆっくりめではあるが、いよいよ本番に向けてギアが入った ――そんな心持ちだった。

そんな折、嬉しい連絡があった。
地元の「西日本新聞」から、取材の申し込みが来たのだ。
「ジストニアの手術から一年でコンサートに至る経緯を紹介したい」とのことで、紙面は「健康・医療」欄になるらしい。
掲載場所はどこでもよく、誰かの目にとまり、少しでも元気になる人がいれば十分。即OKした。取材日は8月14日。

当日来られた記者のSさんは、明るく聡明な雰囲気の方だった。
話し始める前に、ご自身も2か月前に病気が見つかったと明かしてくれた。
これまで闘病する人を取材してきた立場からすると、まさか自分がそうなるとは思っていなかったという。年齢もまだお若いようなので、その衝撃は大きかっただろう。

そこで、私は35歳のときに初めて発症した痛風の話しをしてみた。
「日々の薬の進歩は目覚ましく、毎日薬さえ飲んどきさえすりゃ、日常に支障はないですよ。」
続けて、
「ついでに42歳のときは“糖尿病”も発覚してます。これも、薬を飲み続けてるんで、へっちゃらです。」
と、不健康自慢をした。

慰めになったかどうかは怪しいが、Sさんは笑いながら、
「薬の進歩ってすごいものですよね。わたしも、手術ではなく、薬で治す方向なんです。」
と答えてくれた。それを聞いて一安心!

私は「人間、いつ病気になるかわかりませんからね。暗くしていても良くはならない。なら明るく行きましょう、生きている限り。」
そんな言葉をきっかけに、取材が本題へと進んでいった。

Sさん「最初に異変に気づいたときは、やっぱりショックでしたか?」
私  「それは驚きました。でも“寝れば治るだろう”くらいでした。」
Sさん「それはいつ頃ですか?」
私  「2021年秋頃です。」
Sさん「それから徐々に進行していったんですよね。進行するにあたって、落ち込むとか、弾けずにイライラするとか悩みはなかったんですか?」
私  「いいえ、1ミリも。『どうにかしなければ』しか考えてなかったです。私から音楽をとったら『ただの酒飲みのオジサン』ですから。」
――この“酒飲みのオジサン”発言はSさんのお気に召したようで、実際に紙面にも採用された。

その後も、発症から手術までの経緯、その後のリハビリ、ピアノを始めたきっかけ、そしてなぜBACHなのかなど、話題は次々と広がり、気づけば2時間半も経っていた。
Sさんは私の“苦労話”を引き出そうと多角的に質問していたが、そのたびに、自分が明るく過ごしてきたことに気づかされた。指が動かず困ったことは確かにあったが、 落ち込んだことは一度もなかったのだ。

Sさんは、こう尋ねてきた。
「取材していても、なんだかとっても楽しいんですが、どうしてですかね?」
私は若い頃から音楽仲間に言ってきたことを、そのまま答えた。
「音楽家は夢を見せるのが仕事。人前で暗い姿やマイナスなことは言わない――そう言ってきた手前、自然とそういう生き方になったんじゃないでしょうかね。」

きれいごとではない。音楽家として生きていくと決めたときからの本音だ。
取材の終わりにSさんは、
「今日は逆に励まされました。」と言ってくれた。その一言が、私には何より嬉しかった。

取材の数日後、電話での追加取材が行われた。
今回は1時間ほどで、内容の確認と、いくつかの新しい質問が中心だった。
その中に“まとめ”的な質問があった。
――ジストニアになってから感じた「メリット」と「デメリット」は何か?
考えたこともない視点だったので、一瞬だけ間があいた。
それから、「メリットは、弾き方や手指の動かし方など、“ピアノを弾く”という行為そのものを、もう一段深く知ることができたこと。デメリットは……失った時間ですかね。」と答えた。
このやり取りは、強く印象に残っている。

そして9月1日、掲載の日がやってきた。
実際に紙面を手に取ってみると――なんと、1ページに大きく取り上げられていたではないか!
私と手のアップの写真付きで。

内容は、取材時に話したことに加え、ご自身もジストニア経験者である脳神経内科のドクターによるジストニアの説明も添えられ、非常に読みやすく整理されていた。 おまけに、コンサートの告知までも載っていた。

あまりにも大きく扱っていただいたことにも驚き、Sさんにお礼の電話をせずにはいられなかった。
電話に出たSさんに、感謝と記事の大きさに驚いたことを伝えると、
「最初はもう少し小さいサイズの予定だったんですけ、書いているうちに筆が止まらなくなって……。この記事には、私自身が救われたように、山田さんのように“希望を捨てず、 前向きに立ち向かってほしい”という願いを込めました。」
と、何とも嬉しい言葉を返してくれた。

多くの人に知ってもらえるのはもちろん嬉しいが、こうして“生の感想”を直接きけたことに、強く胸を打たれた。
話して良かった――心からそう思った。


 ・2025年10月17日~
  『リハーサル』
今日は今年初のリハーサルだ。
このホールでは毎回弾いているものの、響きが強すぎて、しばらくは耳が慣れない。そのため、毎回数回はリハーサルを行う。
おまけにピアノも、ホールに対しては巨大すぎるスタインウェイのフルコンサートピアノ。響き過ぎないよう、繊細なタッチ加減も慎重に確認している。
今回は手術後初めてのリハーサルなので、念のためもう一回、11月14日にも予約を入れておいた。
今日は主に、テンポや曲想を除いた「音のチェック」を中心に進めたいと思っている。
まずは、いつものようにピアノの位置決めから。
バッハを弾く以上、響きに飲まれない“クリア”な音が理想だ。
そのため、通常置かれている位置よりも50cm~1mほど客席側へ出す。ステージ奥へ行けば行くほど残響が強くなるからだ。
何度か位置を変えつつ、客席で聴いてくれている人の意見を聞き、おおよその場所が決まった。さて、いざ音出し。
このピアノを何十年も弾いてきたが、相変わらず弾きにくい。ステージ上で聴く音と、客席で聴こえる音はまるで違うのだ。
まずは「こんなふうに聴こえているだろう」という自分の感覚でしばらく弾いてみた。
すると、驚きの事実が判明した。左手と右手のバランスが、いま一つ良くないらしい。
左手はくっきりと立体的に聴こえる一方、右手が少し雲って聴こえるという。
なるほど、自分の“内側の耳”がズレていたのだ。
おそらくジストニアの影響で右手のタッチが浅くなっているのだろう。しかし自宅では気づかないまま、それを“良し”として練習していたのだ。
ズレた感覚の理由を探りながらリハーサルを続けた。
右手のパワー不足を補おうとして、無意識に左手が張り切り過ぎていたのだろう。しかも今回は、以前ならできていたタッチの微妙なさじ加減も、後遺症のせいか思うようにはいかない。
さてどうしたものか……。

そんなことを考えながら、音づくりを続けていった。
そういった不安要素が発生したので、14日の前にもう一度試して確認したいと思っていたら、偶然、来週の今日が空いていたので、すぐに飛びついた。
今日の演奏は、ビデオカメラと吊りマイク音源のUSB、両方で録音していた。
帰ってさっそく聴いてみると――なるほど、本当にバランスが良くない。本番までに、左右のタッチの深さを調節しなければならない。

新たな課題が、またひとつ生まれた。

 ・2025年11月7日~
  『第二回目リハーサル』
前回の復習戦とばかりに、この一週間はとことん“タッチ”の研究をして今日に挑んだ。
まずは前回計測していた場所にピアノをスタンバイ。客席で聴いてもらったところ――しめしめ、前回より右手の音が断然クリアになっているそうだ。
しかし!いまだ左手の方が少しだけくっきり聴こえるらしい。2割程度タッチを抑えて作ってきたのだが、これでも?という思いだった。
そこで、前回よりさらに30cm、ピアノを前面に出すことにした。
ちなみに前回書いていなかった企業秘密だが、ピアノをほんの少し右側にも傾けている。これはステージから見て、右後方の音がよろしくないためだ。
打鍵すると、まずハンマーが弦を打ち鳴らすが、ここが一番音の立ち上がる場所だ。通常はステージど真ん中に配置し、地べたの板張りの木目に直角になるように置く。 見た目にも整っている。ただし、それだと必然的に左側に音が飛びやすい。そのため、会場全体に均一に音が届くよう工夫した結果、こうした「少し右に振る」という配置になった。 これで客席後方の右と左の音の差があまり目立たなくなる。私の演奏会では常にそうしている。
その位置で再び弾いてみると、さらに全体がクリアになっているそうだ。その瞬間、「今年はこの場所!」と決定した。
音楽的にも今回は、テンポも曲想も本番通りに弾いた。途中、自分なりにうまくいかなかった箇所も多分にあったが、それは自分側の責任なので、本番までに調整するしかない。
こうして試行錯誤を繰り返し、会場の力も借りて、来週のリハーサルへと希望をつないだ。ちょうどあと一週間。今回もタッチを慎重に、自分なりのバッハを目指そう!

 ・2025 年11月14日
  『最終リハーサル』
今日は、今回のリサイタルに向けた最後のリハーサルだ。
最後のリハーサルでは毎回、衣装を着て本番と同じ時間進行で進めることにしている。 これまで行ってきた二度のリハーサルの成果をどれだけ今日に反映できるか――そこが最大のポイントだ。
お客さん役として数名が来てくれたこともあり、会場には本番さながらの空気が漂っていた。そんな中、いよいよ演奏を始めた。
弾き始めからタッチに気を配り、テンポにも注意を払いながら慎重に進めていく。悪くはない。だが、どこか「自分ではない感触」がつきまとう。 経験上、こういうときは途中から崩れやすいこともよく知っている。皮肉なものだ。
そこで、耳を澄まし、音の一粒一粒を拾いながら集中を高めようと試みた。しかし結局、最後まで自分の感覚と演奏が嚙み合わないまま終わってしまった。 もっともたちの悪い“演奏中にモチベーションが下がる”という事態に陥っていた。
今年からスポットライトは、熱を放つ“ハロゲン”から熱のほとんど出ない“LED”に変わったはずなのに、全身大汗をかいていた。これは間違いなく冷や汗だ。
演奏を終え、一人、頭は抱えていないものの、それに近い心境で、今後の対処法を高速で探していた。 ところが、聴いてくれていた人たちは口々に「良かった!」と大喜びしてくれた。演奏が良かったらしい。 正直、最初は「気を遣って言ってくれているのでは?」と疑う気持ちもあったが、そこは素直に受け取っておこう。 この“内側の違和感”は、結局のところ誰にも理解できない感覚なのだ。

しおれている場合ではない。何とかあと二週間で原因を突き止め、修正せねばならない。疲れ切った体と心を今日はいったん休めよう。
いつになく重い足取りで、会場を後にした。

 ・2025 年11月15日
  『ラジオ出演』
昨日は帰宅後、脳も体も疲れ切っているのだろうと思い、ふてくされて練習もせず、怠けた一日を過ごした。
そういえば今日は、先月に収録した、親戚がパーソナリティーを務めるラジオ番組の放送日だ。 先月に収録したもので、親戚とは、小さい頃から大学卒業まで続いた“師弟関係”の子でもある。

「ジストニアから復活コンサートへ至った道のりを喋ってほしい。聞いている人に勇気を届けたい」そう頼まれたので即OKした。 おまけに、コンサートの告知もできるという。
収録当日、これがなかなか変わっていて、「親戚で集まった時のまんまの喋り方が、リスナーにはむしろウケる」とのこと。 さらに「何も考えず、普段通りで来てくれ」と言われたので、本当にノープランのままでスタジオに向かった。
本人とスタッフに軽く挨拶をして、簡単な打ち合わせ。前半は“ピアノを始めたきっかけ”や“なぜバッハなのか”後半は“ジストニア発症からコンサートに向かうまで”。 それだけ聞いて、いざ本番!
そして驚いたことに――編集無しの一発撮り!YouTube で一発撮りに慣れてはいるとはいえ、ラジオは勝手が違う。果たしてどうなることか…
だが始まってみると、相手のリードが見事だった。
教えていた頃の面影を残しつつ、10年以上の時間を経て、堂々と話を運んでいく。その頼もしさに感心しながら、会話の流れに乗っていった。
収録時間は30分。
普段の講座では2時間以上しゃべっているので長さは気にならない。ただ、どんな角度から質問が来るかわからないので、一言一句を逃さないよう “ピアノの音を聴くときの耳”を発動した。
私は普段、博多弁丸出しでしゃべる。妻や周囲から再三再四、言葉遣いには気をつけてね、と言われていたが、今回は“大人の博多弁”でうまく乗り切った。

話しているうちに、ピアノを始めた頃の自分、音楽にのめり込んでいった若い日々、そして気づけばバッハを追い求めていたことが、時系列に蘇ってきた 。懐かしさに包まれながら言葉を紡いだ。
後半は、指の異変に気付いた瞬間から、手術、リハビリ、そして今回の復活コンサートへ至るまで。最後にコンサートの告知もして、収録は終了した。

――たくましく成長した“かつての教え子”。 ――今の自分。 ――これから挑まなければならない自分。いくつもの時間と存在が重なり、胸の奥に静かな余韻が残った。
一人でできることなど限られている。周りの支えがあるからこそ、また一段前へと進める――そんな実感が湧いていた。

収録を終えるころには、自然と力が戻ってきた。

 ・2025年11月28日
  『コンサート前日』
いよいよ再起をかけたコンサートが明日に迫った。
やれるだけの準備はしたつもりだ。明日はなにも考えずに純粋に音楽を楽しむしかないな。
そう自分に言い聞かせて、夜は家族といつも通りの晩酌セットで、いつも通りの夜を過ごそう。 冷たくも残酷に過ぎる“時間”を相手に…

さぁ―、いざ勝負!!

 ・2025年12月1日
  『最終話~コンサートを終えて』
終わった――!!

なぜコンサートが終わって日にちが経っているのかというと…
当日は“冷たくも残酷に過ぎる時間”を淡々と受け止め、ほぼ予定通りの時間で終演した。その安堵感からか、打ち上げは午前2時まで。
そして帰宅後は、起きて待っていてくれた妻相手に、明け方5時までしゃべり倒していた。
本番後のアドレナリンは容赦なく噴き出す。今回も例外ではなかった。その結果、我が家の時間だけが世界とズレてしまった。さらに寝ついても3時間後には起き出してしまう始末。 覚醒しきった“脳”の暴走は止まらない。そこで、今日やるべきことに取りかかった。

通常のコンサート翌日は、チケット半券の確認や、お礼をするために贈答品のチェック、会計処理といった残務に追われる。しかし今回は、ライブ配信にトラブルがあり、 動画ファイルと音声ファイルをすべて編集し直す羽目に。その作業が夜遅くまでかかってしまい、通常通りの仕事は翌日に持ち越しに。
結果、この『ジストニアの闘い』を書くのも今日になった、というわけだ。
さて、話はコンサート当日にさかのぼる。

11 月28日に書いた短い文章の裏で、実は自分にも隠していたことがあった。
ふだんのコンサート当日の朝なら「おっしゃー、今日はいっちょやったるで~!」と叫び、演奏を早く聴かせたい気分で目覚めるのだが、今回は違った。
「ついにこの日が来てしまった…」という、沈痛な思いで目が覚めてしまったのだ。
今日まで自分に言い聞かせてきたつもりだったが、“恐怖”という二文字は、それでも頭から出て行ってくれなかった。こんな気持ちになったのは初めての経験だった。
ジストニアによる指の不調も理由の一つだろうが、しかしそれ以上に、“メンタルをギリギリのところで踏ん張っている自分”にうすうす気づいてしまっていたからだろう。 しかし、やらねばならない。家族やスタッフも、そして聴衆も待っている。ここで弱気になってどうする! と、いつもとは逆の意味で自分を奮い立たせ、 力いっぱい『うりゃ――!!』と叫んで強がってみた。
開演前までは、自分で決めた予定通りに進めた。13 時過ぎ、ピアノのコンディションを確かめる意味も込めて、プログラムを通しで弾く。16 時、一度帰宅し、身体を休める。 この間に調律が入る。この調律師とは、公私とも長い付き合いで、全幅の信頼を置いている。音の注文は言葉だけで伝わりにくいものだが、 彼には不思議と通じる。数々の難問をお願いし、会場を後にした。

18 時にホールに戻り、調律の仕上がりを確認するためスケール全調だけ弾いた。
私は本番直前ではスケール全調しか弾かない。
スケールを弾き始めてすぐ、思い描いた通りの“音”が立ち上がる。思わずニヤリとし、調律師に向けて親指を立て『Good!』。弱気な心に、ようやく良い風が吹いてきたぞ!

そして開場、開演。
控室で衣装に着替え、さらに大声で叫んで気合を入れ、ステージ袖へ。
私は手足が震えるタイプではない。若い頃に一度経験したきりで、それ以来一度もない。“緊張”という言葉は悪く捉えられがちだが、私の場合は“テンションが上がる” 感覚で、本番には不可欠なものだ。むしろ舞台に立つと落ち着き、内なる闘志がメラメラと湧き上がってくる。「行ってきま~す」と、妻、調律師、スタッフに声をかけ、 いつも通り“左足”からステージへ向かった。
前半20分、後半50分、アンコール15分、おしゃべり5分。
予定通り、ほぼ21時に終演した。

実は今回のプログラムには、自分なりの“ストーリー”があった。
ジストニアっぽい症状が出始め、この先の不安や怒り…その当時の心境を重ねた、一曲目『パルティータ第二番』そこから起こった数々の出来事心の変化を詰め込んだ、 全30曲の『インヴェンションとシンフォニア』プログラムにこそ載っていないが、アンコールでは底抜けに明るく、今の気持ちをのせた『イタリアンコンチェルト全楽章』 そして最後に安らぎの『ゴルトベルク変奏曲のアリア』4 年間の軌跡をそのまま描いた内容だった。

演奏中にいくつかハプニングがあった。
気持ちの浮き沈みもあった。本来あってはならないことだが…そのたびに何度も自分に言い聞かせた。
『ジストニアになんて、願ってもなれるもんじゃない。しかも術後1年で復活コンサートをするってのも、経験できるもんじゃない。逃げるな。最後まで気合を抜くな!集中しろ!』
そうやって走り切った。

しかし正直、満足出来る演奏ではなかった。「ジストニアだったから仕方ない」と思われることが、一番イヤなのに。情けない。

そんな気持ちを抱えたまま、終演後のロビーへと向かった。
「この程度の演奏で申し訳ない。これは頭を下げて回るか」という気分だった。
ロビーに着くと、そこには想像もしていなかったほど温かい空気が満ちていた。
大勢のお客さんが待ってくれていて、みんな満面の笑み。ジストニアのことを口にする人は誰もいない。「よくぞ戻ってきた!」という声が圧倒的だった。
予測とはあまりに違う反応に、正直面食らった。
その時、ある人の言葉を思い出した。
「主観などどうでもいい。来てくれた人がどう感じたかが一番大事だ。来てくれた人たちが喜んでくれたのなら、それが成功だ。」
逆の立場なら自分でもそう言うくせに、今回は『音楽』というものに対して、内なる感覚が“恐怖”によってずれていたのだろう。
その言葉を思い出した瞬間、スイッチが切り替わり、聴きに来てくれたことへの感謝が溢れ出してきた。

以前にも書いたが、私は“音”そのものは物理的なものだと思っている。作曲家が書いた音を緻密に分析し、正しく再現する。これが曲と向き合う大前提だ。 だが、“音”の集合体として生まれてくる“音楽”は、まったく物理ではない。
私の経験では、物理的な理解を重ね、時間をかけて付き合ってゆく先に、正体不明の“音楽”が生まれてくる。それは一瞬で生まれ、一瞬で消える。そのはかなさの中に、 きらめくような美しさが宿る。言葉では説明しきれないし、説明しようとするのも野暮だ。感じる心に“理屈”や“説明”はいらない。
特に今回のように特殊な状況で過ごした4年間で感じたこと、考えたこと、すべてが詰まって、今回の“音楽”が生まれたのだと思う。

「勇気づけられた」「力をもらった」という声をその場で聞き、アンケートにも同じような言葉が多くあった。そうした言葉を受け取った時、次なる目標が自然と頭をよぎった。
『ストレスゼロで、コンサートの朝を迎えること』だ。『音楽家とは夢を与えるもの。人前で暗くなったり、マイナスなことを決して口にするな』 いつもそう言ってきた自分だが、今回はほんの少し、その言葉に近づけたのではないか。そう思える自分が、いまは少し誇らしい。


  『~終わりに~』
この『ジストニアとの闘い』を書き始めたのは、2021年の秋だった。
当初はジストニアかどうかさえ分からず、ただ万が一そうであった時のため、再起までの道のりを書き残しておけば、いつか誰かの役に立つのでは――そう思って書き続けた。
結果は良いのか悪いのかは分からないが、予感は的中し、病名は『ジストニア』だった。
ピアニストとは孤独な職業だ。ステージに一歩踏み出せば、助けてはくれる者は誰もいない。自分だけが頼りだ。
病気もまた、最終的に闘うのは本人であり、孤独を感じる瞬間も少なくないだろう。
だが、決して一人ではない。家族、友人、音楽仲間――私の周りには、支えてくれる多くの人たちが常にいた。
ステージ上では私ひとりでも、ふと目を遠くへ向けると、支えてくれている多くの人たちの姿が見える。毎度の光景だが、歳と経験を重ねたせいか、今回はより鮮明だった。
もちろん、それ以外にも多くの力をもらってきた。
一人でできることなど、たかが知れている。周りのみんなの力あってこそ、物事は進むものだ。 ――そのことを今回、あらためて痛感した。
そして、少しおこがましいが、“愛されている”という気持ちを素直に受け取ることができた。
自分の話しになるが、私は人を嫌いにはならない。基本的に『人』が好きだ。人に限らず、あらゆるものを簡単に愛する。人は人を愛せなければ、愛は返ってこない。 そうした『愛』に包まれている人生だからこそ、ジストニアも、今回のコンサートも乗り切れたのだと思う。

ジストニアだろうとピアニストであろうと――やはり大切なのは『生き方』『生き様』だ。ここまで来られたのも、自分を信じ、周囲の力をありがたく受け止めながら歩んできた 『生き方』の結果だろう。これはどんな職業、立場、年齢であっても変わらない普遍のことだと感じている。


最後に。
今回の演奏中も、コンサートを終えてからも、胸の奥で鳴り続けていた思いがある。
それは『人は命ある限り闘い続けなければならない』ということだ。
当たり前に聞こえるだろうが、人はつい、楽な方を選びたがる。私は若い頃から、物事を決めるときはあえて“キツイ道”を選んできた。乗り越えた先で、自分が少しだけ強くなれる 気がするからだ。
今回の一連の出来事も、その“キツイ道”を選び、歩き続けた結果だと確信している。
そして、その背中には『あきらめない』『暗くならない』自分がいた。
ジストニア発症から手術、リハビリ、そしてコンサート。この間、いったい何度“朝”を迎えただろう。
寝れば必ず朝が来る。生きている限り、それは変わらない。ならば――どうせ来る朝なら、笑って迎えようではないか!
辛いことを笑いに変えてしまおう。私は毎晩、眠る前にこう思う。

『きっと明日は素晴らしい日になる!』と。

2025 年12月11日
山田 力


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